私に視覚障害とはなにかを教えてくれた師匠が二人いる。1人は歩行訓練士の清水美知子さん。数年にわたって月1回勉強会のあと夕食を兼ねて個人授業をしてもらった。見えなくても歩けるし食べられるし手も動く、なんでもできる、でも正しくできているかが確認できない。歩く向きが正しいか、足元は安全か。白杖をもって優先座席で文庫本を読む人は何者(視野狭窄の高度な人)。盲導犬にバス停へというと連れて行ってくれるか(無理です)。同じ障害でも先天と後天では全く違うことも教わった。点字を習得した人は私たちが墨字(普通の文字)を読むのと同じ速さで点字を読む。見えない世界が暗黒な訳ではない。白い人もギラギラ光る人も暗い人もいるのだろう。色をどう感じるのかも一様ではないかもしれない。先天障害は教育が重要である。一方普通に見える世界で暮らしてきた人が視覚障害になると訳が違う。何が起こったのか了解できない不安からのパニックを受け止め状況を認識することは本当に大変である。白杖を持てない人も雨傘で足元を確かめることは受け入れやすい。そんな一歩から見えにくい世界を生きていくことが始まる。
ベーチェット病から失明、その後手術で片目の視力を取り戻した西川みどりさんがもう一人の師匠である。二人でずいぶん旅をした。知らない町で明るい間は私が道案内をする。日が暮れた帰り道は白杖をもつみどりさんが連れて帰ってくれる(白杖なしでは暗闇では立ちすくんでいるのに)。美術館で絵を前に「同じ絵をみているのか?記憶をみているのか?」と意地悪な質問もした。ツヤのあるナナカマドの実はみえないのに同じ赤い実でもリンゴはみえた。天の川の星数は私とはずいぶん違っていた。みどりさんは腰部の骨肉腫に侵され歩行障害がでてきた。全盲のご主人と二人で住むためのバリアフリーの家を建てた。車椅子には広い空間が必要で見えない人には手掛かりになる壁がいる。どうなっているのだろうと家族連れでお邪魔した。シンプルな和風のごく普通の家であった。玄関扉、上がり框、中庭を囲んだ部屋の配置などこだわりがあったようだがみどりさんは接待に忙しく解説できずくやしかったらしい。全盲のご主人が豆をひいて美味しいコーヒーをいれてくれる。みどりさんは使った食器が空になるや否や洗って食器棚に戻す。(これなんだ)と私は納得。バリアフリーとは暮らし方そのものなんだ。全盲の夫が自立して暮らせるように“いつも決まった場所にある暮らし”をしているということが見えたと思った。
加齢はいろんな障害を持ってくる。なにができてなに困るのか その正体をみつけて具体的に回りの人に伝えたいと思う。字が大きかったら、明るかったら見える。正面から話しかけてほしい。カートを押したら楽に歩ける。自分の困っていることを伝える努力がバリアフリーの世界を創り出す力ではないだろうか。